私は原子炉JPDR 1

実は再びというか、吾にとって「いま」契機が来ているのである。

 

世界を見てもスリーマイル、チェルノブイリに続いて福島第一は甚大な被害を及ぼした。それは人為的ではなく天災と共にやってきた。

事実は知っているつもりだ。でもその根拠(証拠)を確認したい。つもりとは言いたくない、現実を自分の目で確かめることが事実だと思っている。

だからずっと東電に駆け寄っていた。

「いちえふ」(福島第一原子力発電所廃炉作業現場)を見せろと。

 

震災10年を経て、さらに社会的情勢の制限が解除され、要望が一気に許可されたのである。

 

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この文字を羅列しているのは10月26日である。

この日は「原子力の日」として制定されている。理由は旧原子力研究所の設置した動力試験炉JPDR(Japan Power Demonstration Reactor)が1963年に初めて発電に成功した日に由来する。

後年、1956年だったかその前後のこの日に世界的権威の国際原子力機関に日本が加盟を「申請」したのにも由来する。

 

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吾は県立工業高校機械科に進学した。

機械科1年1組出席番号34番。蛇足、35番のY君は永遠の片思い。

教室の隣は図書準備室。司書の先生と執筆に忙しい図書分掌の現代社会の先生と入学当初から仲良くなり、2年生から図書委員長となる。1年生の時の図書委員長は職務怠慢で委員でもない吾が代行していたのである。

年間30万円ある(年3回発行の図書館だより印刷のための)広報予算、三学期近くの年末に司書の先生に相談される。今年は丸々あるこの予算を使わないと......図書分掌の一人は現代社会の先生でK2(世界第二峰)に登頂後、教職復帰し休暇にはパキスタンを探査する人。

流れで「文芸春秋」社のS氏を紹介してもらい、吾が本当に知りたかった植村直己氏をとことん掘り下げ「冒険ってナニ?」を特集した。

30万円思う存分使ったよね、小遣い月5000円のガキが。印刷会社にも放課後行って交渉したなぁ。

 

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二年生に進級した委員会有志(どこの部活にも馴染めず集まった栗本薫グインサーガ系のオタク仲間)。スライドして委員長の座にいる吾は「今年も予算30万円あるよ、文化祭含め図書委員会名目で何かしない?」という話になる。

 

社会派の吾がチェルノブイリってなんなの?それを知ろうとした発言が地雷を踏んだ。

結果、司書と分掌の先生を含め「社会的問題を高校生の視点で展開するのって文化祭らしいと思うのよ。」くすぶる種火に薪をくべられたんだよね。

吾は後にも引けなくなり、吾は必死に原子力(発電)関連の本を優先的に蔵書にしてもらう。当時も今と変わらずネガティブ意見の書籍が多く、容易く解説するモノは一切なく、専門書を読んでいた。

機械科の教科書「原動機」の中には確かに内燃機関としての記述はあるが、それを授業の中では時間的に無理で機械科の先生に個別授業を受けていた。

 

限界が生じたある日、母に東海村に行きたいと、その地を見たいと言った。暫くの沈黙の後に母は「いってきなさい」そう静かにつぶやき一万円を差し出した。

そして嫌いな授業がある日、ゲリラ的に学校へは行かず無意識に常磐線に乗った。

母は何くわぬ様相でアリバイを作ってくれた。

向かうのは茨城県東海村。そこにあるPR施設ででチンチンに毛がやっと生えた頭でっかちのガキが何を言ったか。教科書を抱えていたのかもしれないが、覚えていない。

 

駅から相当な距離を歩いたのさ。それだけさ。

 

辿りついた先で、ものすごい電力事業社のパンフレットの山とシャープペンシルの頭が核燃料のペレットと同じ最小単位の大きさなんですよ(これで1世帯が何十年もの電力を賄えますという✖啓蒙◎啓発)!というようなノベルティ

 

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そこで最後に出会った一人の初老の男性。

 

物腰柔らかでガキの吾のチェルノブイリの怒涛の質問に丁寧に応えてくれた。

ツアーではない数か所の飛び入りのPR施設見学だけで、最後の質疑応答のような感じで疑問点に全て砕いて応えてくれたのは覚えている。

 

そして最後に手渡されたのは一冊の本だった。

 

《 私は原子炉JPDR 》

 

原子力研究所が廃炉作業に向かう時の一冊であった。

もう廃盤かもしれない。

もしかするとその建設に関わった先輩なのかもしれない。

今になってもう一度会いたい方なのである。

 

残念ながら、その所在は知らない。

 

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吾は賛成とか反対とか、可か不可か。

それだけの判断基準ではないのである。

 

しかし、吾は吾の幸の上に奪ってしまった福島の方々の生活を思わなければならないのである。

 

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だから事実を知りたい。

奇しくも吾はその後に放射線手帳を取得し数々の教育を受けて特に旧原研構内で作業していたのである。

今は一般土木業界に所属しているのだが......時々廃炉関連に間接従事しているのである。